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 視聴率低迷でひところの人気に完全に陰りが見えたフジテレビの長寿バラエティー「笑っていいとも!」。ここへ来て司会のタモリ(森田一義=65)降板説や番組リニューアル説などがまことしやかにささやかれ始めた。

 テレビ関係者は証言する。「最初に話を聞いたのは今年4月ごろ。タモリさんが6月いっぱいで番組を降板、後任司会にはSMAPの誰かを据えてタイトルをリニューアルするという話でした。平日昼に毎日司会ができるメンバーといえば、中居くんか草なぎくんだろうということで、スケジュールの確認に走ってウラ取りをしようとした社もあったみたいです」

 関係者はさらに続けた。「気になる番組内容は「基本的には『いいとも!』の流れを踏襲したバラエティー番組になると聞いていました。『森田一義アワー』の冠を『SMAP○○アワー』に変えて『いいとも!』の看板は残そうといった案も出ていたらしいので、かなり具体的な話だと思っていましたが…」

 6月30日現在、番組リニューアルの発表はない。誤報だったのか?

 視聴率で大苦戦していて、最近では「ひるおび!」(TBS)や「ワイド!スクランブル」(テレビ朝日)にトップを明け渡している状況の『いいとも!』。司会のタモリにも昔のような番組に対する熱意も薄れているように感じられる。前出の関係者は「7月の降板はありませんでしたが秋の改変期まで持つのかと噂されていますね。いつ打ち切りになってもおかしくない状況です。ただ、フジテレビ上層部には、来年の30周年まで持たせて大々的に司会交代イベントにしたいと考えている者いるらしいともささやかれていて、まだ終わらないよと言っている関係者もいますが…」

 1982年10月4日より放送開始された長寿番組も来年で30周年を迎えるまでの長寿番組となった。面白さを追求するなら、惰性でダラダラと続けるより、スッパリ辞める道をタモリは選ぶかもしれない。

【他にはこんな記事も!!】
植村花菜が急性虫垂炎で入院
ついに主演映画もコケそうな織田裕二
『JIN-仁-完結編』は終わらない!? 『JIN-仁-』に“続編”制作の噂

 

http://news.livedoor.com/article/detail/5674748/
※この記事の著作権は配信元に帰属します

 


m1ngchqさん

タモリって何者なのでしょうか?

いつもサングラスをして‥
司会者の人は
さんま→お笑い 元アイドル?

紳助→漫才師

などなど


タモリって
 元は俳優か何かですか?

 


ベストアンサーに選ばれた回答


ryo_ishikawa_daresoreさん


あのね

ググるといいよ
要はもと素人芸の第一人者です

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q137482353

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%A2%E3%83%AA

大学時代 [編集]
1965年に早稲田大学第二文学部西洋哲学専修へ入学[11]。その後学費未納のため抹籍処分となる[12]。

 デビュー以前 [編集]
1968年に帰郷。保険外交員(朝日生命)時代は営業成績がトップクラスであり、表彰されたこともある。この時期に同僚の女性と結婚した。また、喫茶店の雇われマスターだった頃には、ウィンナ・コーヒーを注文すると、ウィンナーソーセージが入ったコーヒーを出すなど、地元では奇妙なマスターとして有名であった。

 芸能活動 [編集]
 デビューのきっかけ [編集]
タモリ自身「30歳までは何をやってもいいが、、30歳からはちゃんとした事をやっていかなければならない」と考えて自分はお笑いの道に向いていると確信し、芸能界入りを果たした。

きっかけは、ジャズ・ピアニストの山下洋輔との出会い。1972年、タモリが大分県日田市のボウリング場支配人だった時に始まる。当時の山下は、ライブ後ホテルで乱痴気騒ぎをすることを常としており、渡辺貞夫のツアーメンバーの1人として福岡を訪れた際も同様であった。

タモリは、渡辺貞夫のマネージャーと学生時代の友人同士であったために同じホテルで飲んでいたところ、廊下まで響くその騒ぎを聞きつけ、鍵の開いていた部屋へと乱入し、ゴミ箱を取り上げて自ら歌舞伎を踊り始めた。中村は、その非礼をインチキ朝鮮語でなじったところ、タモリがそれより上手なインチキ中国語で返答したために、双方が意気投合したという。後日、「この男はジャズ・ファンに違いない」と確信した山下らジャズメンが、博多のジャズバーに片っ端から問い合わせた結果、とあるジャズバーで発見された[14]。その後、新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」の常連(奥成達、高信太郎、長谷邦夫、山下洋輔、森山威男、坂田明、三上寛、長谷川法世、南伸坊ら)で結成された「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」のカンパによって、1975年6月に上京を果たす[11]。開かれた独演会では「四ヶ国語麻雀」や、「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士が宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」などのリクエストを含めた即興芸を披露し、筒井康隆、唐十郎、山下洋輔ら臨席した全員を感動させる。また、タモリの芸は奥成達から「密室芸」と命名された。

臨席したうちの1人である漫画家の赤塚不二夫は、「この男を博多に帰してはいけない」と引き留め、自らの家に居候させた。また、後にプロデューサー的にタモリを売り出し、しばしば一緒に仕事をした高平哲郎にも、しばらくして「ジャックの豆の木」で芸を見せ、意気投合している。

 芸能界入り [編集]
1975年、30歳で芸能界入りする。東京12チャンネル(現:テレビ東京)の深夜番組『空飛ぶモンティ・パイソン』で芸能界デビュー。その後、日本テレビの棚次隆プロデューサーの目に留まり、『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ系列)でレギュラーの座を獲得し、『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)で人気を不動のものとする。

また、NHK『ばらえてい テレビファソラシド』では、既に人気を得ていたが、毒のあるキャラクターや発言などから、NHKには不向きといわれていた。また当時のNHKは制限が多く、今のように誰もが出演できると言う訳ではなかった。だが、タモリの持つインテリジェンスが番組の性格と一致するということ、そして、進行役の永六輔の後押しもあり、番組に起用される事となる。当初はゲスト出演で、得意のハナモゲラ語やスキャットで女性アナウンサーと絡んだり、イグアナの物真似をしていたが、その後、レギュラーとして定着。番組後期は、永六輔と共に『テレビファソラシド』の顔的存在となった。

1981年4月4日に『今夜は最高』(日本テレビ)が始まり、また、1982年10月4日より『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系)がスタートしている。前者の番組が始まると、テレビ番組の司会者としての能力の高さ、ゲストのあしらいの上手さが評価されるようになった。

芸能界デビュー当時は、世間やテレビ業界からあまりの過激さから、「ゴールデン番組には出演させてはならない」と、密室芸人の異名を持っていた。タモリは自ら「江頭2:50みたいな存在だった」と言っていた。

「戦後最大の素人芸人」を自称していたデビュー当時は、常にアイパッチを使用していた。お笑いタレントでありながら愛想笑いやヨイショ芸をせず、どこかインテリ風で何を考えているか分からないという革命的な芸風だった。サブカルチャー好きの若年層には好評を博すが、中高年層には強い印象を与えつつも「薄気味が悪い」と不評だった。「恐怖の密室芸人」という評も与えられていた。

 

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1435606019
※この記事の著作権は配信元に帰属します


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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110701-00000007-nkgendai-ent

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